藤沢市議会 2022-09-20 令和 4年 9月 定例会-09月20日-05号
ドイツでは、記憶文化として、2005年、ブランデルブルク門に驚くような巨大な負の遺産として、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」をつくっています。21世紀になってからこの碑をつくったということに私は大変驚いたところです。年を追うごとに人が変わり、変化する市民意識を前に、記憶を残そう、平和を守ろうという強い意思が見えると感じます。
ドイツでは、記憶文化として、2005年、ブランデルブルク門に驚くような巨大な負の遺産として、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」をつくっています。21世紀になってからこの碑をつくったということに私は大変驚いたところです。年を追うごとに人が変わり、変化する市民意識を前に、記憶を残そう、平和を守ろうという強い意思が見えると感じます。
杉原氏はリトアニアに駐在した際、ユダヤ難民を救おうと外務省の許可なくビザを発行しますが、追われるように退職しました。戦後は鵠沼に住んで商社などに勤めますが、戦中の活躍より、私はむしろ名誉を回復する前の後半生のほうが、ある意味人間くさく、興味深く思います。戦後20年以上がたって、ぼろぼろになった当時のビザを手にした一人のユダヤ人が訪ねてきます。杉原氏が救った数千人と言われるうちの一人でした。
中国人はドイツ・ナチスから逃れたユダヤ人も多く受け入れているとガイドから説明を受けました。私は、中国人と日本人の立場が逆だったら、侵略した方の命を助けることができるかと感じました。 質問ですが、憲法や教育基本法は、戦争の放棄と平和で、自立した人間、人格の完成を求めています。
かつてナチス・ドイツは、ユダヤ人の大量虐殺を実行する前に、同じドイツ人の障害者を約30万人虐殺していました。その経緯を調べてみると、当時のドイツ社会に優生思想が蔓延しており、善良で優秀な精神科のドクターや看護師がその執行に携わったということがわかります。
私たち、湘南フォーラム、6月に、リトアニアで人道的にたくさんのユダヤの人の命を救った杉原さんの功績を、リトアニアに行くわけにはいかないので、国内の杉原さんの出生地と言われる岐阜県の八百津町に行ってまいりました。人道の丘というところに杉原千畝記念館というのがありました。
ドイツ系ユダヤ人で、ナチスからの迫害を逃れ、アメリカに亡命した政治哲学者ハンナ・アーレントは、当時の惨劇の底に凡庸な悪を生み出し、平凡な人間たちは皆思考を停止し、周囲に同調して悪魔の所業に加担したと述べています。思考の停止は真の教育に最も反するものです。 市立小中学校の先生たちは公務員です。法律の中で行動せざるを得ないことは理解しています。しかし、私は先生方にもっと考えてほしい。
その後、ユダヤ人虐殺に走ったのです。 最近の世界の動きは、弱い者、生産性の低い者に対して厳しい考え方が広がっている感じがしてなりません。津久井やまゆり園の事件を初め、認知症のお年寄りをホームの窓から突き落としたり、点滴に毒物を混入させたり、あるいは乳幼児期の虐待が後を絶たない。このような、日本でも弱い立場の人たちの命を奪う行為が蔓延しているのではないでしょうか。
杉原千畝さん、皆さん御存じだと思いますが、第2次世界大戦中、多数のユダヤ人に日本の通過ビザを発行し、多くの命を救ったことから日本のシンドラーと称される外交官です。そして、日本へ帰国後は、この藤沢鵠沼に住まわれました。 第2次世界大戦当時、日本通過ビザの発給が認められるユダヤ人の資格として、避難先の国の入国許可を得ていることや避難先の国までの旅費を持っていることなどが定められていました。
例えばハラルというイスラム教の戒律に沿った食べ物、コーシャというユダヤ教の食事規定に沿った食べ物など、余り我々日本人にはなじみがありませんが、それぞれの宗教を信じていらっしゃる方々にとっては大変重要なことです。そういったことも食を通じて学ぶことができるのではないでしょうか。このような例に限らず、やまと世界料理の屋台村はさらなる国際交流、相互理解促進のためどのような工夫をされているのでしょうか。
それからナチスは、学校、新聞、ユダヤ人などを次々と攻撃した。自分はそのたびに不安を感じたが、それでもなお行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であったから、行動に出ようとしたが、そのときは既に遅かったという言葉です。 今、国が進めている税と社会保障の一体改革。
それがいかに子どもたちが、ドイツの国民が、あのユダヤ人を虐殺したかということを、お互いにわかり合えるという形でございます。私ははっきり申し上げて、広島、長崎の原爆を落としたのはアメリカであります。日本人が落としたわけではありません。そういった面、私ども、運動することは、アメリカの国、世界の人たちに広島、長崎を見ていただきたいということを訴えるべきだと思っています。
そうした中で、比べるのもいかがなところがあるかと思うんですけれども、当時の敗戦国であるドイツに対しては、客観的に見ると、恐らく我が国と比べて、ユダヤ人に対する対応ですとか虐殺そのものを目的とした行為をしたということで言いますと、非常に人道的に大きな問題を我が国以上に行っていたにもかかわらず、現状においてドイツに対してそうした指摘、まだまだ対応が不十分であるという声は余り我々も聞かないにもかかわらず、
このような宗教、ヨーロッパ各地で約1000年以上前からイスラム教、キリスト教、トライアングルとしてユダヤ教、不毛の争い事を繰り返してきております。その根源的なものとして記憶に新しい平成13年9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロ、出口の見えないイスラム教文明対キリスト教文明の戦い、それぞれ平和と寛容、愛と平和のスローガンがなえているようにも見えます。
以前筑波大学の名誉教授の書かれた本で紹介された中に、アウシュビッツに収容されたユダヤ人をめぐるエピソードの一つに、死が日常化され、収容所の極限状態の中で、どんなに苦しくつらい気持ちに打ちのめさせられていても、1日に何か一つ心から笑えるようなジョークを考え出し、お互いに笑い合うと約束していた人たちがいた。
前問の議員さんの中でも、ポーランドの方に行って、ユダヤ人の大量殺りくというんですか、ホロコーストの現場を見てきたというような話をされていましたけれども、やはり聞くのと実際にそこに行って見るのとでは大きな違い。それだけは申し上げたい。 ですから、教育長、中学校の校長会で教育長はお話を、紹介をするというふうに言った。僕はそれが気に入らない。
約150万人のユダヤ人、政治犯、少数民族、障害を持った方などが殺害された場所では――これはアウシュヴィッツ、ビルケナウという2つの収容所の写真ですが、そのまま残されています。子供たちの団体が先生の引率で真剣に見学している光景が見られました。また、東ドイツのライプチヒでは、一夜にして爆撃に遭い廃墟となった町や教会堂を60年かけて再建した市民の力を見てきました。
イギリスで生まれ、アメリカで発達した優生思想を最悪な形で利用したのがあのヒットラーであり、あげくの果て、ユダヤ人の大量虐殺・ホロコーストを行いました。それはだれの目にも余りにも残虐で許されないことであったために、優生学は多くの非難を浴び、マイナスイメージができ上がりました。 そこで、1970年代になると、優生学は形を変えて、選択的中絶を行うようになりました。
そのもとになったのは、ポーランドのユダヤ人、ヤヌシュ・コルチャック氏の著書「子どもの権利の尊重」です。彼は、世界初の小児科医、児童作家、孤児院の院長と多岐にわたる活動を通して子供の尊厳のために尽力しましたが、ナチス侵攻により、ユダヤ人の強制収容所送りが始まる中、自分だけに差し伸べられた救いを拒否し、子供たちの先頭に立って、ガス室の待つ強制収容所で命を落とすことになりました。
第二次大戦中、ユダヤ人孤児の救済や教育に尽くし、収容所で命を絶ったポーランドを祖国とするコルチャック先生ことヤヌシュ・コルチャック、彼が唱えた子ども権利尊重がここに大きく反映されております。その中の言葉に「子どもは幸福になる権利を持っている。子どもの幸福無しに、大人の幸福はあり得ない」。当たり前のことと考えますが、現代においても実現できているのか問題であります。